広島県呉市下蒲刈島で、開園したい理由
こんにちは、ブルーベリーファーム呉の横山です!
・通行料を払わなければ渡る事ができない島
・15年間放置されたボロボロビニールハウスの撤去に、多額のお金を要してまでも、撤去したい場所
この島で、ブルーベリー観光農園・カフェを開園したい!という強い気持ちがあります。
今回は、この島で、「開園したい理由」について、考えてみたいと思います。
結論から申しますと、その理由は、先祖代々、暮らしていたこの島を大切にしたい!という想いが強いからです。そして、この想いは、広島に引っ越し、島の方々とお話させて頂くことで、より強くなっていくのです。
私にとっての下蒲刈島とは?
幼少期、遠いけど、ワクワクしていた下蒲刈島
ブルーベリー観光農園&カフェの開園準備に向け、ほぼ毎日、呉市と下蒲刈島に繋いでいる「安芸灘大橋」を渡るようになりました。
私の幼少期、安芸灘大橋という、こんなにも立派で大きな橋はなく、フェリーで下蒲刈島に、渡っていた記憶があります。(2000年に開通したとの事)なので、とても下蒲刈島は、遠い存在である記憶と、船に乗れる!やった〜!っと、船に乗る事に、ワクワクしていた記憶があります。
幼い頃、とても遠いと感じていた、この下蒲刈島に、祖父母を始め、先祖代々、住んでいたのです。
80歳代のおじいちゃん達から教えて頂く、過去の島とは
下蒲刈島で仕事をするようになり、80歳を超える、多くのおじいちゃん・おばあちゃんとお話をさせて頂く機会が増えました。私が農作業をしていると、通りがかりに、「ブルーベリーは順調か?」と立ち寄ってくれます。
よくお話させて頂く方の年齢は、60歳代の方もいますが、多くの方は、80歳以上の方々です。言葉は、下蒲刈弁?呉弁?という、広島弁よりも、訛っている言葉で、5割以上、理解できていないかもしれません。笑
だけど、私にとって、80歳以上の方々とのお話は、とても興味深く、新鮮です。
その理由は、私の祖父母・両親が子供だった時代から現代に至るまで、この下蒲刈島がどのように歩んできたのか?変化しているのか?、少しでも知っておきたいからです。
おじいちゃん達は、下蒲刈島への愛情が強く、隅々まで島を知り尽くしているのです。
80歳代のおじいちゃん達のお話を聞くと、祖父母が生活していた景色が、ぼんやりと浮かんできます。祖父母からは、聞いた事がない話がいっぱいです。
そもそも、1年半前まで、私が下蒲刈島で仕事をするとは想像しておらず、祖父母に、自ら聞く事はありませんでしたし、興味もなかったです。
今から70年・80年前の時代
下蒲刈島で仕事をするようになり、多くの島の方が、「あんた、どこの子ね〜?」っと聞いてくれます。その度に、「典三と明美の孫です!」というと、「あぁ〜あんた、典やんと明やんの孫ね〜」っと、言われます。
(何度このやりとりをしたことか・・・笑)
その度に、若かりし祖父母との思い出話・昔の生活の想い出話をしてくれます。
その話は、私にとって、私の祖父母の人間像や性格、過去の生活、過去の遊んでいた頃の思い出・現在と過去の景色の違い等、昔の景色が浮かんでる事ができ、時代の変化を感じる事ができます。
今では考えられないのですが、祖父母共に、兄弟が多く、祖父の兄弟は、10人兄弟だったと聞きました。(昔の兄弟は多かったんですね。)祖父母の時代は、今とは違い、学校に行くというより、若くても働くという時代であり、兄弟が多いと働き手になるため、兄弟が多い事が良いとお聞きしました。
原爆が投下された1945年8月6日、祖父の兄は、広島市内で仕事をしており、原爆により亡くなりました。私の祖父母は、下蒲刈島におりましたが、原爆が投下した瞬間、ドーンッという音が聞こえたみたいです。
そのような戦後の時代、下蒲刈島では、とても子供が多く、学校のクラスも多く、賑わっていたとの事です。祖母の話では、一つの学年で、50人以上は在籍していたというので、今の下蒲刈島からは、全く想像できないくらい、人で賑わっていたのでしょう。
下蒲刈島の現状とは
時代の変化と共に、変わってゆく下蒲刈島
祖父母の時代、また、私の親の時代、そして、私の時代では、全く異なっていると感じています。この時代の流れは、人間が逆らうことができない程、急速に進んでいる様に思います。
急速に進んでいる流れの一つに、人口減少の流れが挙げられます。そもそも、今の日本全体で、人口が減少しているので、仕方がないのですが・・・。
人口減少の流れが象徴されるかの様に、下蒲刈島の小学校・中学校は、2020年3月、閉校しました。また、下蒲刈島の小学校は、隣の島である、上蒲刈島の小学校と統合したのですが、2023年度の新一年生は、5人未満だと聞きました。
この子供達が少ないという課題は、下蒲刈島の問題だけではないので、これも仕方がない流れの様な気がします。70年前・80年前、祖父母達、また、先祖が、生き抜いた戦前・戦後の時代からでは、想像できていない事でしょう。
この時代の流れに一石投じたい!
この様に、島の子供が少なくなっている時代の流れの中、ボーッと見ておくしかないのでしょうか。
また、私がブルーベリー観光農園を開園しようと思った場所である、あの15年間放置されていたボロボロビニールハウスと同じ様に、放置されていく場所が、増えていくことを仕方がないと眺めておくしかないのでしょうか。
島の方々と、コミュニケーションを取ることで、「この時代の流れに、少しでも逆らいたい!もがきたい!何かきっかけを生み出したい!」という気持ちが、徐々に強くなっていきます。
つまり、ブルーベリー観光農園を通じて、「島を活性化したい!」
もう少し、私なりに噛み砕いて考えると、「住民と土地をイキイキと生きたい!」
この「イキイキとする!」きっかけを生み出したい!と真剣に考える事ができる島が、下蒲刈島なのです。
イキイキとするきっかけとは!?
下蒲刈島に、ブルーベリー観光農園・Cafeを開園することで、呉市の方だけでなく、中国四国地方最大都市である、広島市内から、下蒲刈島に、今までにない多くの観光客を呼びたいと考えています。
目標は、2027年一夏、5000人を目指しています!
ブルーベリーの旬は、「夏」、つまり、下蒲刈島の最も賑わう、「海水浴シーズン」とピッタリなのです。これは、非常に可能性を秘めていると感じています。
“地域活性化“の一つに、この島の地域住民を増やす事、島内にお店を増やす事、等々、挙げられるかと思います。
しかし、このような一般的な地域活性化の定義の前に、広島県民・他県の方に、下蒲刈島のことを、もっと多くの人に知って頂く必要があると考えています。
このファーストステップである、多くの人に知ってもらう事=認知が、ブルーベリー観光農園を通じて、やりたい事なのです。
多くの観光客が来島頂く事で、生み出したい変化・結果
80歳代のおじいちゃん達が、イキイキと働いていた若かりし時代、その当時のことをお聞きします。
島の全員で、道路を作り、畑を耕し、島で生きるために、働いたお話を度々お聞きします。
多くの人が住んでいた事、子供達が走り回っていた事、山々はみかん畑で綺麗だった事、何より、将来の子供・孫達の為に、真の文化・真の教育を残したいと思っていた事をお聞きしました。
それが、今も残っている、下蒲刈島にある美術館・博物館・お祭り、伝統行事なのです。
「この真の文化・真の教育を、将来の子供達の為に、少しでも良い形でバトンを繋ぎたい!」と思っていた祖父母の時代の方々の意志を、私も繋ぎたいという想い・気持ちが、Uターンし、さらに強く芽生えたのです。
私は、ブルーベリー観光農園・カフェ事業を通し、
①食育支援
②キャリア支援
③家族の想い出支援
④島の活性化支援
この4点を支援していきたいのです。そして、この4点目の「島の活性化」は、Uターンし、気持ちが強くなりつつあります。
ご先祖達のバトンを、少しでも良い形で繋ぎたい!、この時代の流れに逆らいたい!という気持ちがあり、私にとって、下蒲刈島は大切な島なのです!